沿革

岐阜県立大垣南高等学校は今から約60年前、
大垣市美和町(現在の大垣東高校 大垣市民病院の東)に誕生しました。

学校教育法により

大垣中学、大垣高等女学校、大垣商業学校、大垣女子商業学校、
安八農学校、大垣市立高等女学校
6校が、

大垣高等学校、大垣女子高等学校、大垣商業高等学校、
大垣農業高等学校、大垣市立女子高等学校
5校となり、

その後、大垣高等学校、大垣実業高等学校2校になる。

ここから
大垣北高等学校(普通科、商業科)、大垣南高等学校(普通科、商業科、家庭技芸科、農業科、商業科別科、定時制商業科、日置江村、佐波村組合立稲葉分校)が設置された。

今の旧国道21号線を境に、北の者は北高へ、南の者は南高通学する事となる。

昭和24年4月1日大垣市美和町南高誕生

この編成には様々な学校が無くなったりで、色々な反対や争いがあった。
歴史ある大垣中学の流れをくみ優位に立とうとするのは北高か南高かでの争い。
しかし北高が後身高となり不満もかなりあった。
その上、居住区で学校を振り分けられる事に対する不満も。

水の都大垣をイメージし、旧制第一高校の柏の葉をヒントに、「おもだか」を校章とした。
おもだかの周りには水滴がある。
当時は不破高もできて、学区編成でそちらに転校となる方も。

26年に標準服
28年に白線3本の制服
37年今の紺の制服ができた

S35年前後には女学校になるという噂があった。
S39年度より学力向上のため二期制に。

S40年水球部岐阜国体初優勝。水球部は後に水泳部に。

45年から文化祭が2日に。

41年に南高校舎老朽化により移転問題
47年に浅中への移転が決定。
49年浅中へ移転完了

南高跡地に東高が建つという事に当時は大反対が起きた。
自分たちの学校はどこへ行ってしまったのか。
自分たちの学校が別の学校になってしまう事への反対。
今もまだ反対の声は残っている。

そして、学校がかなり中心部から離れた大垣市の郊外のため、
南高のレベルが下がることが危惧された。
実際にそのレベルの低下は起きてしまった問題である。

この時に図南鵬翼、大事業や大遠征を企てることを譬えたこの言葉を移転した浅中の地で飛躍しようと合言葉とした。

49年4月から浅中の新校舎での授業開始
全校生徒、職員が一斉に大移動。

そしてこの年から学校群制度導入
学校群制度とは、学校間の格差を無くすためのもので、岐阜県を区域ごとに6つに分けて、
大垣では北高と東高で第一群、東高と南高で第二群、北高と南高で第三群が出来た。
どの群を受験しても、合格発表までどちらに入学するかわからず、確かに格差は少し是正されたが、希望の高校でない生徒もたくさん入学した事から、この制度は過去の中でも最低の制度です。

49年6月1日から大外羽駅が開設
51年7月21日より全面停車。

49年7月30日記念館(現在も使われている部室や更衣室等)が落成

49年10月3日体育館完成

51年校舎南堤に250本つつじ植樹。

52年夏服ベストの制定作業、54年から採用。

53年、30周年、中庭造成、おもだか池造成。10月6日プール完成、大時計設置。水球部は東高のプールに通っていたが、この年から水泳部に変わった。

55年 西高が新設され、新学校群制度発足
北高と西高、東高と南高の2つの群となった。

56年グランド整備、自転車置場設置

57年新たな校訓。56年卒業生で交通事故で亡くなった方のご両親から記念碑が贈られた。言うなかれ本日学ばずとも来日ありと

58年4月より学校群制度廃止
廃止により地の利の悪い南高の衰退が心配される。

59年に校章プリントされた南高バッグに改良。
61年に再度改善され現在の南高バッグに

63年 40周年、中庭グランド整備、おもだか池に鯉を放流

平成元年 ベビーブームで南高のクラスは400人を超える。

平成3年 この年からバレー、バスケ、ドッヂの3種目から選べた大会を、バレーボール大会に統一。

平成4年 8月31日、体育館の図南鵬翼の額の除幕式。

平成5年 1年生の2泊3日の宿泊研修開始。
進路室の隣に学習室設置。グランドに照明設備設置。

平成6年 5年度まで凧揚げ大会が行われていたが、6年からかるた大会となった。

平成7年 南高祭が文化祭2日から1日に短縮された。体育祭はそのまま1日。
南高公式ホームページ開設。

平成10年 創立50周年南風館落成

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